日本初の公園


深川公園(明治末頃)

日本初の公園というと横浜の「山手公園」(1870)があげられる事があるが山手公園は外人居留地につくられた英国人の公園であって原則一般の日本人が利用できるものではなかった。
一般の日本人が利用できる公園は太政官不達(1873)で飛鳥山、上野、芝、浅草、深川などの神社仏閣内の行楽地を公園と指定したところから始まる。公園を新たに作ったのではなく既存の行楽地を公園と呼ぶようにした訳である。欧米諸国のような先進国に仲間入りするために体裁を整えたのであろう。
この初めての公園の一つになった深川公園を訪れた。明治末期の深川公園の様子を描いた漆喰画と案内板があった。下記に案内板の内容を記載した。

深川公園は、明治6年(1873)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。
この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘がありました。明治12年(1879)には梅、桜を植え花園として整備しました。
明治40年(1907)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。
下の漆喰画(しっくいが)は、文化12年(1815)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治22年(1889)深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。
平成2年3月 江東区 

またスマホのアプリ「江戸今昔めぐり」から江戸末期の深川公園付近の地図と現在の地図を比べてみた。
江戸末期の地図

現代の地図に描いた水色のラインは江戸末期の地図を参考に書き入れてみたもの。


これらによると深川公園は永代島と呼ばれ、掘割で囲まれていて江戸末期には永代寺というお寺があったが漆喰画には描かれていない。調べると永代寺は明治初年の神仏分離により廃寺となったが1896年に再興され、永代寺に関係のある深川不動堂も後に(1950)建てられた。
現代では公園は深川不動堂により二つに分かれたような形になっているが週末などは賑わていて日本初の公園の一つはレガシーとして息づいているようだ。

ちなみに江戸末期の地図に深川富士という絵が富岡八幡様の上に描かれている。これは富士塚とよばれ富士信仰に基づき、富士山をイメージして作られた塚、オブジェなどで江戸時代には「お富士さん」とよばれ江戸には多く存在していた。この深川富士は今でも存在する。

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