宮家のテーマパーク

桂離宮は江戸時代初期に八条宮家智仁、智忠親子により造営された。

智仁親王月見台と言うデッキを備える書院と呼ばれる建築を作る。その後智忠親王が庭園を整備し、庭園の随所に茶屋、寺院なども作った。

桂離宮と言うと、何か高貴で厳かなイメージを抱く人も多いと思うがここは宮家の作ったテーマパークではなかったのかと思ってる。

桂離宮のある場所は源氏物語にも出てくる月を愛でる名所であった。

そして当時月は最高のエンターテイメントであった。

月を愛でる事は上流階級の証でもあったと思われる。銀閣寺などは、月を愛でるための巨大な舞台装置だったとも言われている。

夜は月を愛で酒を飲み、昼は舟遊びをして茶屋で酒を飲みおしゃべりに興じる。

茶屋は茶室と違って縁台(テラス)でツマミやお酒など飲食しながらでおしゃべりを楽しむ場である。それに比べて茶室はもっと格式が高く厳かなイメージである。

 桂離宮には茶室もあるが茶屋だけでは、ちょっとかっこがつかなかったから、後から茶室を作ったのではないだろうかなどと邪推している。

桂離宮は昭和に入りブルーノタウトと言うドイツ人によって評価され非常に有名になった。

ブルーノタウトは、ドイツのバウハウスと言う建築集団に影響を受け、モダン建築に非常に興味があった。

そんな彼が書院のモダンな造形と巧な空間演出が展開される庭園に惚れ込んだのだろう。

しかし桂離宮には朱色の大橋があったという説がある。外腰掛から松琴亭に向かう一直線の空間の先に大橋があったという事らしい。

桂離宮のイメージから考えるとこの朱色の大橋は場違いな感じを受けるがテーマパークだと考えれば派手な朱色の大橋はむしろ桂離宮のシンボルだったのかもしれない。

という事で朱色の大橋がある桂離宮を3Dで作成してみた。今後はディテールの完成度を高めてきたいと思っている 。


3D桂離宮巡り

 

宮家のテーマパーク (3D桂離宮巡り予告編)

https://youtu.be/roseVYgwc4A 

動的景観

開発に伴う緑の保全に関する議論が盛んに行われています。

植物は生き物ですので、いずれ枯れます。

それが山であれば樹齢が尽きて枯れる場合もあれば、動物被害、豪雨などによる崖崩れや落雷、山火事などでも枯れてしまう場合もあるでしょう。

樹木は未来永劫居生き続けるものではなく芽生えと枯、そして新しい芽生えとつながっていくものです。

景観として緑を捉えた場合、樹木の保全と言うことで、その永続性を求められる場合も多く、樹木が弱ってくると構造的な補強をしてまで維持しようとすることもあります。

私はそのような行為には疑問を感じています。


街の緑は、ダイナミックな街の変化、社会的圧力によって失われてしまう危険が高いです。

人間の都合で緑を伐採をするのはけしからんという意見は多いのですが

大切なのは、11本の樹木を保存すると言うことよりも、街全体としての緑の量を減らさないといった考え方だと思っています。


樹木は生き物であるので緑景観と言うのは、その時代によって変化していくのが自然であり、ある一定の景観を維持し続けるということはむしろ不自然だと私は考えています。

緑景観というのはダイナミックなものだと捉えています。


日本初の公園


深川公園(明治末頃)

日本初の公園というと横浜の「山手公園」(1870)があげられる事があるが山手公園は外人居留地につくられた英国人の公園であって原則一般の日本人が利用できるものではなかった。
一般の日本人が利用できる公園は太政官不達(1873)で飛鳥山、上野、芝、浅草、深川などの神社仏閣内の行楽地を公園と指定したところから始まる。公園を新たに作ったのではなく既存の行楽地を公園と呼ぶようにした訳である。欧米諸国のような先進国に仲間入りするために体裁を整えたのであろう。
この初めての公園の一つになった深川公園を訪れた。明治末期の深川公園の様子を描いた漆喰画と案内板があった。下記に案内板の内容を記載した。

深川公園は、明治6年(1873)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。
この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘がありました。明治12年(1879)には梅、桜を植え花園として整備しました。
明治40年(1907)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治42年(1909)に深川図書館が建てられましたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失しました。
震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ運動場になりました。
下の漆喰画(しっくいが)は、文化12年(1815)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治22年(1889)深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。
平成2年3月 江東区 

またスマホのアプリ「江戸今昔めぐり」から江戸末期の深川公園付近の地図と現在の地図を比べてみた。
江戸末期の地図

現代の地図に描いた水色のラインは江戸末期の地図を参考に書き入れてみたもの。


これらによると深川公園は永代島と呼ばれ、掘割で囲まれていて江戸末期には永代寺というお寺があったが漆喰画には描かれていない。調べると永代寺は明治初年の神仏分離により廃寺となったが1896年に再興され、永代寺に関係のある深川不動堂も後に(1950)建てられた。
現代では公園は深川不動堂により二つに分かれたような形になっているが週末などは賑わていて日本初の公園の一つはレガシーとして息づいているようだ。

ちなみに江戸末期の地図に深川富士という絵が富岡八幡様の上に描かれている。これは富士塚とよばれ富士信仰に基づき、富士山をイメージして作られた塚、オブジェなどで江戸時代には「お富士さん」とよばれ江戸には多く存在していた。この深川富士は今でも存在する。