庭はわがままであるべきだ


先日、小石川後楽園で龍井竹之助氏の「庭園の復元」についての講演を拝聴した。
興味深い内容だったので私の感じたことを述べたい。
庭園を復元する時、重要なのは庭園が生き物であると言うとらえ方である。
庭園はできた時から日々変化していく。それは庭園の構成要素が生き物であることにもよるが、その時の庭園オーナーの趣味、嗜好、さらに自然災害や人的災害(戦争)などにも影響を受ける
大胆に言えば、同じ庭でも時代によって全く違う庭になっていたと言うことである。
そのため復元と言う時はその庭園のどの地点に復元するかと言うことが重要なポイントになってくる
しかし一般的に復元と言うとその庭園の過去の資料からある要素を再現していく場合が多いのではないだろうか。しかしそれはある時代の一片を再現したにだけであって庭園の再現とは言い難い。
そもそも刻々と変化した庭の復元などは不可能だと思う。
ここで庭園を復元と言う観点ではなく庭園をデザインすると言う観点で考えればもっと違ったアプローチが考えられる。
庭は「人」が祈り、思考し、楽しむのための装置である。それはその「人」がごく限られた人物だったかもしれないし一般大衆だったかもしれない
楽しむと言うことを観点からすればいわばテーマパーク的な要素がデザインベースになると思う
大名庭園などでは全国の名勝等の風景を真似してそのミニチュアのような景観を庭園に配しそれをめぐることで楽しみを得ていた。
銀閣寺や桂離宮などは月を愛で、楽しむための巨大装置であったとも言える。
そしてそのデザインは皆が協議し検討していく平均値のようなデザインではなく
1人のデザイナーによってデザインされるべきである。(龍居氏も主張しておられた。)
庭とはそういうものではないだろうか?そこに庭の価値がある。

「庭はわがままであるべきだ。」

我々が目指すのは復元ではなく、今の時代に求められる庭園のデザインではないだろうか?
しかし、それはガーデンではない。庭園である以上伝統技術の継承を前提にしたものであるべきだ。
言い換えれば「復元」とは過去の資料から一片を再現することではなく

現代のデザイン+伝統技術

と言えるのではないだろうか。
小石川後楽園

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