江戸の原風景

江戸時代の埋立
鎌倉、室町時代に利根川は今の墨田区北部付近を河口としその南(江東区付近)は広大な湿地帯であった。河口の右岸には浅草寺があり浅草湊として交易の中心となってた。
浅草の西側にも広大な湿地帯(千束池、姫が池)があり浅草は孤島状態で高潮の被害も多かったと考えられる
また今の八重洲、丸の内、日本橋、京橋、新橋、築地当たりは日比谷入江と呼ばれる海だった(日比谷の云われは海苔をとるためのヒビからきていると言われている)
ようするに江戸は広大な湿地帯の一部に台地が掌上に食い込んだような地域であったということである。 


 

環境面から考えると多様な動植物の楽園であったと想像できる
ここに家康がやってきて大規模な都市造成を行ったのである
この時代にラムサール条約があったらとても開発ができなかったであろう。
まず日比谷入江の埋立を行う
また1594年から60年間かけて度重なる氾濫を起こす乱暴者の坂東太郎(利根川)を銚子に方向転換させる(利根川東遷時業)
同時に水路確保のため小名木川(現江東区)、新川を開削して物流を確保しその土で小名木川北部の埋立を行った。
江戸の人口が集中してくると1596年ごろから小名木川の南部埋立を行う。
市中のゴミは屋敷、空き地、川などに投棄していたがゴミ処理令(1655)により市中のゴミは永代島に投棄することを義務づけ、1681年には永代島新田、砂村新田(現江東区内)を指定している。以後現代にいたるまでこの地域は市民のゴミ捨て場となるのである。
振袖大火(1657)の被害から小名木川北部に竪川、大横川を開削して新たな街づくりを行い城下に密集していた武家屋敷を分散させた。これにより江東地区は農業、漁業中心から市街地へと変貌していった。
1764-1771には平井新田の埋立が行われ江戸の河口に残された最後の干潟がなくなり海岸線はほぼ直線上となったのである。
同様に現江戸川区付近も埋立が行われた。
通常埋立は農地確保のために行われるが、江戸の場合は増大する人口のための居住地確保と家庭ゴミの処理場確保のためという特徴がある。
そしてこの埋立は現在でも続けられ今東京湾には「海の森」が生まれつつある 


下図は現在の東京の高低差を表現したものだが
図の青系のエリアはかつて湿原または海であったと想像できる
(東京湾の埋立地部分も海) 
浅草が孤島状態、日比谷入り江などもイメージできる
国土地理院デジタルマップ



参考文献:東京都臨海域における埋立地造成の歴史(遠藤毅)

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